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2019年07月18日健康コラム

日野原重明さんを偲んで

 一昨年の本日7月18日、尊敬してやまない、憧れの存在だった日野原重明さんが105年の生涯を閉じられました。医師として生涯現役を貫き、「元気な老後」を自ら体現するその姿からたくさんの勇気をいただきました。聖路加国際病院名誉院長の立場にありながら最期の場所として自宅を選び、延命治療を拒んだのは、患者の人格や意見を尊重する「患者本位の医療」を実践して終末期医療に取り組んできた日野原さんの最後のメッセージだったのではないでしょうか。

 日野原さんが歩んできた足跡をたどると・・・

○民間病院で国内初の人間ドックを先駆的に開設 → 予防医療の重要性を唱え、1954年に、年に1度包括的な健康診断を行う人間ドックを導入する。これが今日の普及につながり、日本人の長寿に大きく貢献する。

○「生活習慣病」の名付け親 → それまで「成人病」と呼ばれていた脳卒中、心臓病などを「習慣病」と呼んで病気予防につなげようと1970年代から提唱する。旧厚生省は1996年になって「成人病」を「生活習慣病」と改称するに至り、国民の健康に対する意識改革に大きく寄与する。

○地下鉄サリン事件の被害者救助に尽力 → 事件発生後直ちに外来患者の受付ストップを決断、640人もの被害者を受け入れて早期治療に当たる。この決断がなければ、犠牲者はさらに拡大していたといわれている(自身の東京大空襲の経験をもとに、災害発生時に備えて酸素の配管を病院の建物に張り巡らせ、広大なロビーにも設置していたのが奏功する)。

○国内初の独立型ホスピス専門病院を設立 → 初めて受け持った16歳の少女の死が原点。結核性腹膜炎悪化で入院していたが、貧しい母子家庭で、母は入院費や生活費を稼ぐために付き添いができず、面会は2週間に一度程度。病状が悪化して少女は死を悟り、日野原さんに向かって「先生、母には心配をかけ続けて申し訳なく思っていますので、先生からよろしく伝えてください」と合掌する。直後に容体が急変するが、あの時、救命措置に奔走するよりも、そばにいて手を握って話を聞いてあげることこそ、最期の時間を大切にすることではなかったのか・・・。その自責の念が後の、ホスピスづくり、終末期医療重視につながる。

○聖路加看護大学に国内初の大学院博士課程を設置 → しばしば「私の医師としての基礎は看護師が教えてくれた」「15年以上のキャリアを持った看護師と学校を出立ての医師と比べた場合、どちらが人を救う力があるかは明白」と語り、医師不足への対応策として能力と意欲がある看護師にさらに高度な教育を施し、医師業務の一部を分担してもらう新制度づくりを実践する

などなど枚挙に暇がありません。

 晩年には、厚生労働省が名付けた「75歳以上=後期高齢者」の呼称に異を唱えて「新老人」を推奨し、「新老人の会」を立ち上げたり、全国の小学校を訪れて「いのちの授業」を開いて、命の大切さやいじめ防止などを訴えるなど精力的に活動されていました。そして何より「年齢を重ねることは素敵なこと」と感じさせてくれる存在でした。

 テレビ番組でお見掛けしたのは、NHKスペシャル「あなたもなれる『健康長寿』徹底解明 100歳の世界」が最後となりました。その中で、来年開催される東京オリンピック2020 を楽しみにされていた様子が今でも目に浮かびます。長年にわたり本当にお疲れ様でした。そしてありがとうございました。

 「新しい事を始めるのを忘れない限り、人はいつまでも若い!」
私は先月還暦を迎えたばかりですが、日野原さんのこの言葉を大切にして、まずは70歳現役を目指していきたいと思います。


 
 



る「患者本位の医療」を実践して終末期医療に取り組んできた日野原さんの最後のメッセージだったのではないでしょうか。
 日野原さんが歩んできた足跡をたどると…
・民間病院で国内初の人間ドックを先駆的に開設 → 予防医療の重要性を唱え、1954年に、年に1度包括的な健康診断を行う人間ドックを導入する。これが今日の普及につながり、日本の長寿に大きく貢献する。
・「生活習慣病」の名付け親 → それまで「成人病」と呼ばれていた脳卒中、心臓病などを「習慣病」と呼んで病気予防につなげようと1970年代から提唱する。旧厚生省は1996年になって「成人病」を「生活習慣病」と改称するに至り、国民の健康に対する意識改革に大きく寄与する。
・地下鉄サリン事件の被害者救助に尽力 → 事件発生後直ちに外来患者の受付ストップを決断、640人もの被害者を受け入れて早期治療に当たる。この決断がなければ、犠牲者はさらに拡大していたといわれています(自身の東京大空襲の経験をもとに、災害発生時に備えて酸素の配管を病院の建物に張り巡らせ、広大なロビーを設置していたのが奏功する)。
・国内初の独立型ホスピス専門病院を設立 → 初めて受け持った16歳の少女の死が原点。結核性腹膜炎悪化で入院していたが、貧しい母子家庭で、母は入院費や生活費を稼ぐために付き添いができず、面会は2週間に一度程度。病状が悪化して少女は死を悟り、日野原さんに向かって「先生、母には心配をかけ続けて申し訳なく思っていますので、先生からよろしく伝えてください」と合掌する。直後に容体が急変するが、あの時、救命措置に奔走するよりも、そばにいて手を握って話を聞いてあげることこそ、最期の時間を大切にすることではなかったのか…。その自責の念が後の、ホスピスづくり、終末期医療重視につながる。
・聖路加看護大学に国内初の大学院博士課程を設置 → しばしば「私の医師としての基礎は看護師が教えてくれた」「15年以上のキャリアを持った看護師と学校を出立ての医師と比べた場合、どちらが人を救う力があるかは明白」と語り、医師不足への対応策として能力と意欲がある看護師に更に高度の教育を施し、医師業務の一部を分担してもらう新制度づくりを実践する
などなど枚挙に暇がありません。
 晩年には、厚生労働省が名付けた「75歳以上=後期高齢者」の呼称に異を唱えて「新老人」を推奨し、「新老人の会」を立ち上げたり、全国の小学校を訪れて「いのちの授業」を開いて、命の大切さやいじめ防止などを訴えるなど精力的に活動されていました。そして何より「年齢を重ねることは素敵なこと」と感じさせてくれた存在でした。
 テレビ番組でお見掛けしたのは、NHKスペシャル「あなたもなれる『健康長寿』徹底解明 100歳の世界」が最後となりました。その中で2020年東京オリンピックを楽しみにされていた様子が今でも目に浮かびます。長い間本当にお疲れ様でした。そしてありがとうございました。
 「新しい事を始めるのを忘れない限り、人はいつまでも若い!」
日野原さんのこの言葉を大切にして、70歳現役を目指していきたいと思います。 
る「患者本位の医療」を実践して終末期医療に取り組んできた日野原さんの最後のメッセージだったのではないでしょうか。
 日野原さんが歩んできた足跡をたどると…
・民間病院で国内初の人間ドックを先駆的に開設 → 予防医療の重要性を唱え、1954年に、年に1度包括的な健康診断を行う人間ドックを導入する。これが今日の普及につながり、日本の長寿に大きく貢献する。
・「生活習慣病」の名付け親 → それまで「成人病」と呼ばれていた脳卒中、心臓病などを「習慣病」と呼んで病気予防につなげようと1970年代から提唱する。旧厚生省は1996年になって「成人病」を「生活習慣病」と改称するに至り、国民の健康に対する意識改革に大きく寄与する。
・地下鉄サリン事件の被害者救助に尽力 → 事件発生後直ちに外来患者の受付ストップを決断、640人もの被害者を受け入れて早期治療に当たる。この決断がなければ、犠牲者はさらに拡大していたといわれています(自身の東京大空襲の経験をもとに、災害発生時に備えて酸素の配管を病院の建物に張り巡らせ、広大なロビーを設置していたのが奏功する)。
・国内初の独立型ホスピス専門病院を設立 → 初めて受け持った16歳の少女の死が原点。結核性腹膜炎悪化で入院していたが、貧しい母子家庭で、母は入院費や生活費を稼ぐために付き添いができず、面会は2週間に一度程度。病状が悪化して少女は死を悟り、日野原さんに向かって「先生、母には心配をかけ続けて申し訳なく思っていますので、先生からよろしく伝えてください」と合掌する。直後に容体が急変するが、あの時、救命措置に奔走するよりも、そばにいて手を握って話を聞いてあげることこそ、最期の時間を大切にすることではなかったのか…。その自責の念が後の、ホスピスづくり、終末期医療重視につながる。
・聖路加看護大学に国内初の大学院博士課程を設置 → しばしば「私の医師としての基礎は看護師が教えてくれた」「15年以上のキャリアを持った看護師と学校を出立ての医師と比べた場合、どちらが人を救う力があるかは明白」と語り、医師不足への対応策として能力と意欲がある看護師に更に高度の教育を施し、医師業務の一部を分担してもらう新制度づくりを実践する
などなど枚挙に暇がありません。
 晩年には、厚生労働省が名付けた「75歳以上=後期高齢者」の呼称に異を唱えて「新老人」を推奨し、「新老人の会」を立ち上げたり、全国の小学校を訪れて「いのちの授業」を開いて、命の大切さやいじめ防止などを訴えるなど精力的に活動されていました。そして何より「年齢を重ねることは素敵なこと」と感じさせてくれた存在でした。
 テレビ番組でお見掛けしたのは、NHKスペシャル「あなたもなれる『健康長寿』徹底解明 100歳の世界」が最後となりました。その中で2020年東京オリンピックを楽しみにされていた様子が今でも目に浮かびます。長い間本当にお疲れ様でした。そしてありがとうございました。
 「新しい事を始めるのを忘れない限り、人はいつまでも若い!」
日野原さんのこの言葉を大切にして、70歳現役を目指していきたいと思います。 「患者本位の医療」を実践して終末期医療に取り組んできた日野原さんの最後のメッセージだったのではないでしょうか。
 日野原さんが歩んできた足跡をたどると…
・民間病院で国内初の人間ドックを先駆的に開設 → 予防医療の重要性を唱え、1954年に、年に1度包括的な健康診断を行う人間ドックを導入する。これが今日の普及につながり、日本の長寿に大きく貢献する。
・「生活習慣病」の名付け親 → それまで「成人病」と呼ばれていた脳卒中、心臓病などを「習慣病」と呼んで病気予防につなげようと1970年代から提唱する。旧厚生省は1996年になって「成人病」を「生活習慣病」と改称するに至り、国民の健康に対する意識改革に大きく寄与する。
・地下鉄サリン事件の被害者救助に尽力 → 事件発生後直ちに外来患者の受付ストップを決断、640人もの被害者を受け入れて早期治療に当たる。この決断がなければ、犠牲者はさらに拡大していたといわれています(自身の東京大空襲の経験をもとに、災害発生時に備えて酸素の配管を病院の建物に張り巡らせ、広大なロビーを設置していたのが奏功する)。
・国内初の独立型ホスピス専門病院を設立 → 初めて受け持った16歳の少女の死が原点。結核性腹膜炎悪化で入院していたが、貧しい母子家庭で、母は入院費や生活費を稼ぐために付き添いができず、面会は2週間に一度程度。病状が悪化して少女は死を悟り、日野原さんに向かって「先生、母には心配をかけ続けて申し訳なく思っていますので、先生からよろしく伝えてください」と合掌する。直後に容体が急変するが、あの時、救命措置に奔走するよりも、そばにいて手を握って話を聞いてあげることこそ、最期の時間を大切にすることではなかったのか…。その自責の念が後の、ホスピスづくり、終末期医療重視につながる。
・聖路加看護大学に国内初の大学院博士課程を設置 → しばしば「私の医師としての基礎は看護師が教えてくれた」「15年以上のキャリアを持った看護師と学校を出立ての医師と比べた場合、どちらが人を救う力があるかは明白」と語り、医師不足への対応策として能力と意欲がある看護師に更に高度の教育を施し、医師業務の一部を分担してもらう新制度づくりを実践する
などなど枚挙に暇がありません。
 晩年には、厚生労働省が名付けた「75歳以上=後期高齢者」の呼称に異を唱えて「新老人」を推奨し、「新老人の会」を立ち上げたり、全国の小学校を訪れて「いのちの授業」を開いて、命の大切さやいじめ防止などを訴えるなど精力的に活動されていました。そして何より「年齢を重ねることは素敵なこと」と感じさせてくれた存在でした。
 テレビ番組でお見掛けしたのは、NHKスペシャル「あなたもなれる『健康長寿』徹底解明 100歳の世界」が最後となりました。その中で2020年東京オリンピックを楽しみにされていた様子が今でも目に浮かびます。長い間本当にお疲れ様でした。そしてありがとうございました。
 「新しい事を始めるのを忘れない限り、人はいつまでも若い!」
日野原さんのこの言葉を大切にして、70歳現役を目指していきたいと思います。 る「患者本位の医療」を実践して終末期医療に取り組んできた日野原さんの最後のメッセージだったのではないでしょうか。
 日野原さんが歩んできた足跡をたどると…
・民間病院で国内初の人間ドックを先駆的に開設 → 予防医療の重要性を唱え、1954年に、年に1度包括的な健康診断を行う人間ドックを導入する。これが今日の普及につながり、日本の長寿に大きく貢献する。
・「生活習慣病」の名付け親 → それまで「成人病」と呼ばれていた脳卒中、心臓病などを「習慣病」と呼んで病気予防につなげようと1970年代から提唱する。旧厚生省は1996年になって「成人病」を「生活習慣病」と改称するに至り、国民の健康に対する意識改革に大きく寄与する。
・地下鉄サリン事件の被害者救助に尽力 → 事件発生後直ちに外来患者の受付ストップを決断、640人もの被害者を受け入れて早期治療に当たる。この決断がなければ、犠牲者はさらに拡大していたといわれています(自身の東京大空襲の経験をもとに、災害発生時に備えて酸素の配管を病院の建物に張り巡らせ、広大なロビーを設置していたのが奏功する)。
・国内初の独立型ホスピス専門病院を設立 → 初めて受け持った16歳の少女の死が原点。結核性腹膜炎悪化で入院していたが、貧しい母子家庭で、母は入院費や生活費を稼ぐために付き添いができず、面会は2週間に一度程度。病状が悪化して少女は死を悟り、日野原さんに向かって「先生、母には心配をかけ続けて申し訳なく思っていますので、先生からよろしく伝えてください」と合掌する。直後に容体が急変するが、あの時、救命措置に奔走するよりも、そばにいて手を握って話を聞いてあげることこそ、最期の時間を大切にすることではなかったのか…。その自責の念が後の、ホスピスづくり、終末期医療重視につながる。
・聖路加看護大学に国内初の大学院博士課程を設置 → しばしば「私の医師としての基礎は看護師が教えてくれた」「15年以上のキャリアを持った看護師と学校を出立ての医師と比べた場合、どちらが人を救う力があるかは明白」と語り、医師不足への対応策として能力と意欲がある看護師に更に高度の教育を施し、医師業務の一部を分担してもらう新制度づくりを実践する
などなど枚挙に暇がありません。
 晩年には、厚生労働省が名付けた「75歳以上=後期高齢者」の呼称に異を唱えて「新老人」を推奨し、「新老人の会」を立ち上げたり、全国の小学校を訪れて「いのちの授業」を開いて、命の大切さやいじめ防止などを訴えるなど精力的に活動されていました。そして何より「年齢を重ねることは素敵なこと」と感じさせてくれた存在でした。
 テレビ番組でお見掛けしたのは、NHKスペシャル「あなたもなれる『健康長寿』徹底解明 100歳の世界」が最後となりました。その中で2020年東京オリンピックを楽しみにされていた様子が今でも目に浮かびます。長い間本当にお疲れ様でした。そしてありがとうございました。
 「新しい事を始めるのを忘れない限り、人はいつまでも若い!」
日野原さんのこの言葉を大切にして、70歳現役を目指していきたいと思います。  
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